狂気と希望
言葉が死んでいる。近頃、自分にそう感じていた。文章も言葉もキレがない。
自身の「言論」に関してそんなぼんやりとした憂鬱を抱えていた。
(おまえの言論なんてそもそもキレも何もないよwみたいな方は、これ以上読まなくて良し、お引き取りください、笑)
この鬱屈は、時折、右耳が聞こえなくなったり、今まで体験したことのない体の不調も併発していた。
それがなぜなのか、撮影機材の破損もあり、ドキュメンタリー映画製作の重圧が原因なのではないかと漠然と考えていた。
しかし、それは本質的な理由ではなかったことが、今日、沖縄のライカムで「マッドマックス:フュリオサ」を観たことで判明した。
私の憂鬱、いや、すでに鬱屈と言っていいこの靄のような不調の原因は、
明らかにイスラエルによるパレスチナへの侵攻、そして虐殺によるものだと気づいた。
現在のパレスチナへの侵攻、それはもはや長きにわたる入植の最終段階であり、大量虐殺、民族浄化と呼ぶべきものだろう。
現在進行形の「虐殺」の時代に、遠く離れているとはいえ、それをほぼリアルタイムに伝えてくるSNSを眺め、そしてそれを止められない苦悩や己の小ささを痛感しながら、自責の念と同居し、日々、真っ当な精神状態を維持しろというのも、われわれ人類にとって歴史上類を見ない難関ではないだろうか。
どうやら僕らは鬱になって当然である。そういう現状が目の前にある。
ましてここ沖縄には、イスラエルーパレスチナの関係とまったく同根と言って然るべき、日米二重の植民地状態があり、今日も辺野古の海は埋め立てられ、米軍機は低空飛行で爆音で軍事訓練を続ける。
米国はイスラエルに4兆円以上の軍事支援も行い、海兵隊や即応部隊など2000人以上の米兵を送り込むことも昨年10月、報道されていた。
この米兵たちは戦闘には参加しないとされているが、彼らは今どこで何をしているのだろうか?米軍が建設した桟橋で、多くのパレスチナ人が殺害されたとの情報もある。
名護で昨日まで回転寿司を食べていた海兵隊員が今日イスラエルに送られているかは判然としないが、そういう重苦しいリアリティがこの沖縄の暮らしにはある。
シオニストとして知られるラーム駐日大使は先日、沖縄の石垣島、与那国島を訪れた。米軍基地のない島になぜ彼が訪れたのか?
多くの方が理解に苦しむと思うが、現在の日米地位協定では、自衛隊基地を米軍が使用することは公然の事実であり、すでに共同訓練も行われている。
さらに付け加えるとすれば、これらの情報ですら吟味し、発信には正確性を問われるが、SNS上には残念ながら検証されていない無責任な情報が飛び交い、さらに人々を混乱させている。日本語圏の言論人ですら、混沌のなかに飲み込まれる者も多くいて、また頭を抱えてしまう。
悲劇を前にして情報が単純化され、ナイーブな人々はまた感情的にそれを拡散してしまう。単純化の連鎖がある。ここにもまた、虐殺と同等の恐怖を私は感じている。
混乱した状態の人間が流す情報の責任は、どこにあるのだろうか?
その情報が誤りだった時に責任は誰が取るのだろうか?
悲劇が正義への視座を単純化し、それが暴力性を帯びて私たちの生活に悪影響を及ぼしているように感じる。
これにまともに向き合おうとする人間ほど、鬱は加速する。
正気は失われていく。
「縛られる苦痛 やりたいようやるじゃなきゃ頭狂うのが普通」
舐達麻のリリックが骨身に染みる現在。
「戦争」や「侵略」「虐殺」が続き「混沌」がある現在だからこそ、われわれには正確な発信の責任が求められている。
言論人であっても、たとえ言論人だという自覚の無いSNSアカウントでも、
匿名であったとしても、同じことなのだ。
あなたの情報が同じく時代や社会への責任を負っていることを忘れてはいけない。
そんな気分を「マッドマックス:フュリオサ」を観て私は強くした。
われわれが今、選ぶべきは、混沌に加担しないことだ。
悲劇や混乱に身を染め、自分を見失わないことだ。
「狂っているのは俺か世界か」前作、「怒りのデスロード」はマックスのそんなモノローグから始まるが、今作はその前日譚、女性兵士であるフュリオサの幼少からの背景が描かれる。「We are not things 私たちはものじゃない」と壁に殴り書きをして、「子産み女」として独裁者に性奴隷にされた女性たちとともに、自由を目指し疾走する、あの物語の前日譚だ。
今回も劇中の舞台は、核戦争後の荒廃した地球だが、そこに暗喩的に描かれているのは、戦争、搾取、家父長制、ミソジニー、戦時性暴力、ペドフェリア、独裁主義、全体主義、集団的マインドコントロール、植民地主義、放射線の恐怖など、現在もわれわれの尊厳や自由を脅かしている害悪ばかりなのだった。
監督のジョージ・ミラーは、インタビューで「神風特攻隊」に言及していたり、前作では「フクシマ・カミカゼ・ウォーボーイズ」というセリフも出てくる。
(字幕にはなっていないがシナリオに存在する)
またこの記事には、
『マッドマックス:怒りのデス・ロード』では、ジョージ・ミラー監督がフェミニスト劇作家のイヴ・エンスラーにサポートを要請し、エンスラーは俳優たちに対して世界の紛争地域で起きている女性への(性)暴力について講義を行ったという。こうした視点の多様化と、フェミニズムへの理解が、女性が活躍するかつてないアクション映画としての新生「マッドマックス」を生み出した(ただ、公開当時はこうした女性の主体性を描くあり方について「男性権利団体」からボイコットの呼びかけもあった)。
との記述もあるように、監督がこの寓話的な物語を生み出した背景には明確な意図が感じとれる。(ちなみに今作にも黒澤明オマージュがあります。)
私はこの映画に、この時代への回答を見出した。
この映画はこの混沌の時代への解答なのだと思う。
フュリオサの横顔を見て気づいたのだ。
混沌の時代だからこそ、個人の心は混乱を遠ざける必要があるのだと。
混沌/混乱に加担しない、同調圧力や衆愚に染まらない強い個人であることが、今、求められているのだと、ひとつの解をもらった気がした。
帰り道の高速道路は沖縄の梅雨の強い雨が打ちつけていたが、私は晴れやかな気持ちだった。
よくマッドマックスを見た帰りは車の運転が早く荒くなるなんて言うが、私の場合は逆にものすごく丁寧な運転だった。
混沌の時代こそ、私たちは強い個人であり、より丁寧に生きるべきなのだと、
そういう解を私は受け取ったからだ。
家に帰って、部屋を掃除した。窓を開け放して、掃除機をかけ、湿気対策に扇風機を回して、キッチンも風呂もトイレも磨き上げた。
ひと段落して、アイスコーヒーを入れる。(淹れるというほどのこだわりはない)
スピーカーから米津玄師の「さよーならまたいつか!」が流れる。
「人が宣う地獄の先にこそ わたしは春を見る」米津もそう歌っている。
思えばNHKの連続テレビ小説「虎に翼」と「マッドマックス:フュリオサ」が発している「解」は、ほぼ同じだと気づいた。
どちらも人間個人の尊厳と自由についての物語だ。
そして、フェミニズムこそ、その羅針盤なのだ。
「虎に翼」もまたこの時代への明確な回答であり、解答だった。
このドラマを見るために私も毎朝、8時前に起きる習慣がついた。
おかげで、この鬱状態が悪化しないで済んでいる。
100年前のある女性の物語に、100年後の私は今、救われている。
狂気のむこうにある希望を、私は確かに見つめている。
2019年の向坂くじら 那覇にて
ある朝、芥川賞に親友の向坂くじらがノミネートされたことを知る。
彼女は私が世界中から非難された時にほとんど唯一、私の味方をした言論人だ。
くじらとは、「ふてぶてしく目ざわりな人間で在り続けよう」と約束をした仲だ。
そして直木賞には柚木麻子さんもノミネートされている。
彼女は私が脳卒中で倒れた時、支援してくれた。
なんというか、ふたりとも私が混乱した時に手を差し伸べてくれた人間たちだ。
私にとって大切な人たちが、社会にとっても大切だということが判明しつつあるような気分で、とても明るい気分になった。
面白くなりそうだ。私も混乱を遠ざけながら、私の道をふてぶてしく、生きていこう。そう思うと、心が少しだけ活気を取り戻した。
梅雨が明ければ、この街もきっと灼熱だろう。
さて混沌の先へ、狂気と希望を胸に秘めて。
猪股東吾
※2点補足です。
・「リベンジの向こう側」beyond the revengeが指すもの。
その終わり方に現在に対する意義を感じました。
・劇中に登場するとある場所は、ナウシカの風の谷にインスパイアされている?
のではと気になりました。以上です。もう一度見に行こうかと思います。
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