「夜明けのすべて」と「戦雲」を観て問われる

「夜明けのすべて」と「戦雲」
猪股東吾/大袈裟太郎 2024.02.25
誰でも
非公開youtubeより

非公開youtubeより

旧Twitterを控えている。SNSに慣れすぎると脳が構成力を失うような気がしている。

今はじっくり、ものづくりと向き合う。

非公開の制作物をひとつずつ積み上げている。

らんぼうにいえば今、大切なのは、バズらないこと。消費されないこと。

内面世界を広く深く拡張して、それがきっとアサーティブでありながらドラスティックな表現につながるのではないかと。(ルー大柴か)

深夜1時過ぎにNYの村本さんから連絡がある。

「円安で何を買っても高いし、何より2月のNYは寒い。」

僕も3年前の2月、アメリカの東海岸でスタックして帰ってきたことがあるので、

この時期のつらさは想像がつく。

それでもクリス・ロックに出会う村本さんの強運には笑う。

はやくもホームシックになっている彼に25℃の沖縄から温かさを届けたいと思った。

那覇で映画を2本

朝、鳥の声で目覚めた。

最近は生活パターンが安定している。昨年末に睡眠導入剤もやめられた。

陽が出るとコーヒーを入れる。淹れるというほどのこだわりはない。

ベランダでタバコを吸う。

植物たちを愛でる。

朝は土鍋で炊いたご飯と、納豆とめかぶと味噌汁。

自分で漬けた白菜の漬物が調子いい。

教習所。高速道路はまだ怖い。

名護の街で遠くに動物が飛び出してきたのが見えて「犬ですかね?」と質問するとおじさんの教官が「にゃんにゃんだね」と答える。

少しだけかわいいと思ったりした。

バスで那覇に行く。

三上智恵監督の「戦雲」の試写会に呼んでもらった。

その時間までメインプレイスで、三宅唱監督の「夜明けのすべて」を見る。

「夜明けのすべて」

重いPMSに悩み仕事を変えなくてはならなくなった女性と、パニック障害で会社を退職した男性が中小企業で出会う。そこから少しずつ本人たちも周囲も関係が変化していく。

派手でも大袈裟でもない、ささやかな話。

だけど、この映画は当たり前のように誰のことも「踏まない」。

誰の人権も弱みも「踏まない」。

だからずっと観ていられる世界だった。

誰も踏まないようでよく見ると踏みまくってる、「パーフェクトデイズ」の居心地の悪さと対照的な作品だったように思う。

もちろん政治的な作品ではないのだけれど、ただ、劇映画でも実社会を描くわけだから、

そこに社会への正確な眼差しがあることは、この映画に強い共感性と説得力を与えていた。

人間と人間が関わること、関わり合うということ、個人間の繋がりに安易に一般的なステレオタイプが持ち込まれていない点にとても好感が持てる作品だった。

日本映画にはあまりない作品だと思う。

観ているなかで、自分は「こういう結末になってほしくないな」と想像していた結末を、

ちゃんと外した結末になっている点も、三宅唱監督、巧みだなと思った。

シネフィル向けにすごくマニアックなことを書くと、ある写真のなかに2022年に亡くなった青山真治監督へのオマージュがあったことも、ドキドキした。

光石研、斉藤陽一郎と並べば、90年代を生きたものにとって思い起こすのはあの映画しかない。そういえばあの映画も16ミリで撮られていた。

この「夜明けのすべて」も16ミリフィルムで撮られている。

技術の進歩が必ずしも芸術性を高めるわけではないということは、

自分も映像を作る上で肝に銘じておく必要がある。

※音楽がヒップホップグループSIMILABのHi'Specなのも良き。

「戦雲」(いくさふむ)

石垣島の山里節子さんから電話があり、試写会に呼んでいただいた。

節子さんがナレーションしているのがとてもよかった。

しかし、この映画の中には自分がいた場面も出てくる。そしてスポットが当たる人物のほとんどが知り合いだ。ましてや自分も近いテーマで映画を製作中なので、ちょっと客観的に観るのは不可能だと思った。

観終わった後に頭がぐるぐるしてしまった。感情が渋滞してしまった。

そんな状態で栄町でビールを一杯飲んだら酔ってしまって、はやくやんばるに帰りたくなった。近頃の那覇はジェントリフィケーションが進んで居心地が良くない。

自分が実際に体験した過酷な抗議現場をもう一度別アングルから見せられるというのは、なかなか残酷なものだ。しかし、だからこそ体験していない人たち、ましてや東京や「本土」の人々にとって鋭いリアリティを伴って問いを与えるだろうと思う。

印象深いシーンがあった。与那国島で続くハーリー(集落ごとに手漕ぎの舟で男性たちが競い合う祭り)のシーンだ。そこには1700人の島に150人配備された自衛隊員も一緒に参加して舟を漕いでいた。自衛官が地元の祭りに入ることは、米兵がそうであるように、地元懐柔作戦の一部であって、観ていて微妙な気持ちになるのだけれど、

その祭りの狂乱と興奮が醒めやらぬなかでカメラを向けた自衛官たちは、なんというか、

自衛官という肩書きの向こうの個人の顔を見せた気がした。

そういうものが写っていることにこのドキュメンタリーの大きな意味を感じた。

当たり前のことだが自衛官である彼らも、職や肩書きを脱ぎ捨てた向こうに個人の表情があるのだ。逆にいうと、その個人たちがいろんなもので縛られ、大義のようなものや責任を負わされ、「個人」を消失させられるのが戦争なのだと思う。

個人の人生を支配され、その命さえ記号のように「数字」として数えられる。

そんな恐ろしさを私はこのシーンから想起した。

おりしも、イスラエル兵が、虐殺され住み家を追われたガザの女性たちの下着をまるで戦果かのように壁に飾って笑顔を見せる画像がネット上に出回っていた。

私は絶望的な気持ちになった。人間はここまで人間性を失うのか、獣になれるのか。

戦争は「個人」の命まで奪うが、その過程でまず「個人」の人間性を奪う。

だからこそ、戦争に歩みを進めないためには「個人」として強い主体性を持ち続けることだと感じた。

大切なのは「一丸」にならないことなのだ。

「一丸」になれという国家や社会からの圧をはねつけ、もしくは軽やかに跳び越えるタフな「個人」であり続けることなのだ。

三上智恵監督「戦雲」は3月16日から全国公開。

ぜひ、多くの方に観てほしい。自分のように沖縄島に住み、石垣、宮古、与那国の現場に取材に行ける人間はほとんどいないからこそ、この映画で追体験してほしいと思う。

(その上でポジショナリティなどの問題も浮き彫りになると思う)

こちらは昨年自分が書いた与那国島の記事です。

「夜明けのすべて」「戦雲」と間髪入れずに観て、頭がぐるぐるしてダウンした。

さて、「おまえはどう撮る?」と問われた気がしたからだ。

本当は翌日に後2本(沖縄狂想曲とヤジと民主主義)観て帰る予定だったが、

酩酊して少し寝て、朝イチのやんばる急行で名護に帰った。

映画を作るにあたって、映画を観まくっていたけど、

これからは多くても1日に1本にしよう。ちゃんと1本の映画と向き合って咀嚼できる時間を作ろうと思っている。

やんばるの鳥たちの声が私にはやさしかった。

私の不完全な日々は続く。

3行日記

・内面世界の充実というか拡張こそすぐれた表現を生む。気がする。

・戦争に抗うこととは、社会性を持ちながらも穏やかな生活を続けること。タフな個人であり続けること。

・映画は1日1本まで。

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