白菜を干しながらパーフェクト・デイズに反旗を翻す

白菜を干しながらパーフェクト・デイズに反旗を翻す2024
猪股東吾/大袈裟太郎 2024.02.12
誰でも
白菜を干して漬物にしてみました。

白菜を干して漬物にしてみました。

ライターの小川たまかさんに影響されて、昨年夏に「おだやかに暮らしたい日記」というのをnoteに書いてみて、まあこれが文字通り三日坊主で途切れたんですが、案外評判が良く、また書いてほしいという声をもらっていたので、なんとなくthe lettersでやってみようと実験的に始めてみます。

もはや心理的安全性がぶっ壊れて焦土となりつつある旧TwitterなどのSNSに代わる、読者との距離が近い、半歩踏み込んだ媒体になればと思っています。(入会停止中のメルマガとの住み分けなどを考えながら)

タイトルの「imperfect days パーフェクトじゃない日々」は、年明けに大阪で観た巨匠ヴィム・ヴェンダースの「perfect days」にすごく嫌なものを感じたという理由からです。自分はヴェンダースのファンで、この映画にも期待していた分、しっかりと反旗を翻そうと思っています。この件はネタバレもあるので後述します。

1月某日、東京大阪の滞在を終えて名護に戻る。

映画制作の機材選びや取材協力者などとの打ち合わせもあり、慌ただしかったが、年末年始ということもあり、久しぶりに故郷である東京をしっかり見つめることができたと思う。そしてその結果、自分が知っている東京はもう8年前の2016年以前のものなので、その「空気」自体が様変わりし、自分の知っている東京はもう無いかような複雑な感覚があった。浦島太郎感覚と言えばわかりやすいかもしれない。

制作中のドキュメンタリー映画は沖縄と「本土」の関係性を問うものなので、実はこれは由々しき事態。沖縄について問いかける相手として想定していた「本土」すなわち「東京」的なものが、変容しているとしたら、この映画のメッセージを届ける先が的外れなものになってしまう。これからは沖縄の現状と並行して、東京や「本土」の今についてもその最前線を見つめる必要があるとぼんやり考えている。

名護に戻ると本来、バスターミナルで降りるはずなんだけど、思わず海が見える世冨慶の交差点でバスを降りてしまった。

たった2週間ほどの内地滞在だったのに、眼が海を観たがっているし、鼻と肺は海の匂いを吸い込みたがっていた。大きな夕暮れを見る。問題が山積みな年明けだが、この夕暮れには、あらゆる不自由を吹き飛ばすような多幸感があった。

名護の夕暮れ

名護の夕暮れ

近くのA&Wを見ると米兵がハンバーガーを頬張っている。それにすら郷愁を感じることに複雑な気分になった。

辺野古の代執行など最悪のニュースを見つめながらも、名護ではおだやかに暮らそうと努めている。オスプレイが飛んでいないことも少しだけ心理的安全性に繋がっていると思う。

朝は7時に起きる。ヨーグルトを食べ、コーヒーをいれる。(淹れるというほどのこだわりはない)この時期は流石にホットコーヒーだ。ベランダで植物たちに水を与えながら話しかける。この植物たちを枯らさない程度の精神状態を保つのが今年のささやかな目標だ。

朝から自動車学校に行く。

東京では教習所というが沖縄では「自練」という。たぶん「自動車練習場」の略なんだろう。

ある日の私は、もはや自分の娘でもおかしくない高校3年生の女子たちと一列の並んで原付バイクを走らせていた(原付教習)。その上を米軍機が飛んでいく。とても奇妙な光景だった。

ある日、仮免が取れて路上に出た私は、初めて自分の運転で名護の海を見た。それはそれは感動的な景色だった。いつもより美しく見えた。

また別の日は、教官の指示通り名護湾を本部方面に向かった。安和桟橋、そこには辺野古へ運ばれる土砂が船に積まれるのを少しでも遅らせようと牛歩をしている人たちの姿があった。知り合いの顔も見えた。胸が痛かった。おれも頑張ろうと姿勢を正した。

帰ってくると洗濯をする。洗濯が好きだ。晴れた日は1日3回、回すこともある。沖縄の日差しは乾きが早い。干して取り込んで畳むまで、誰に見られているわけでもないのにとても丁寧にやっている。穏やかな日々。私は死ぬまでにあと何回洗濯をするのだろうと時々、考える。けっして悲しい気持ちではない。確認という感じ。

映画に関する事務作業や構想をノートにまとめる。今は自分の脳みそや体をオレンジのようにギュッと絞ってどれだけアイディアが出るか、試されている。問われている。

ひと段落すると、ベランダで珈琲をすすりながら、煙草を吸う。日差しを浴びる。沖縄の強制排除や香港、米国の催涙弾の雨をともに潜り抜けたiPhone11proを今は家用にしていて、そこからBluetoothを飛ばして舐達麻を聴く。うちの11proは今は引退した師匠のような扱いで後輩の14proと新入りの15proを見守っている。新機種たちはだいぶ充電の持ちも長くなったが、もしもまた米軍機が墜落などして長時間の配信が必要な時は、師匠もまた一緒に出動するだろう。

2016年に沖縄に来た8年前、僕の手に握られていたのはまだiPhone6だった。あれから6、7、10、11pro×2と合わせて7台のiPhoneたちに支えられてきた。それらは今、私の歴代の戦友というような扱いで、ガスマスクやヘルメットとともにデスクの後ろのショウケースに鎮座している。それらは私のジャーナリズム人生の痕跡というか、悪戦苦闘を記したちょっとした記念館のようだ。

と書いていて気づいたのだが、40をすぎて独り暮らしの男は家の中のいろんなものを擬人化してしまうのかもしれない。

それらはきっと寂しさや孤独の無意識の証明なのだろう。

そしてこんな私の生活はヴィム・ベンダース監督「Perfect days」の主人公であるトイレ清掃員、平山(役所広司)の生活と似ているように思えた。

私の部屋

私の部屋

(ここからはネタバレを含みます)

パーフェクトデイズにはとても期待していた。ヴェンダース監督は21歳の頃に「パリ、テキサス」を観てからずっと好きだし、そんな彼が撮るtokyoにも胸が躍った。主演の役所さんはもはや説明不要のものすごい役者で、カンヌで主演男優賞をとった時には歓喜した。助演の田中泯さんの日本の映画業界の商業主義に批判的な姿勢も自分にフィットしたし、泯さんが自分が辞めた高校の先輩であることも誇らしかった。

映画が始まり、冒頭からその画の美しさに惚れ惚れした。首都高、渋谷と浅草界隈、自分が東京で暮らしていた景色と同じものをヴェンダースが見つめていることに引き込まれた。実際に浅草で人力車を引いていた頃、僕が常連だった地下街の焼きそば屋も劇中、平山(役所さん)の行きつけの店として出てくるほどだ。

しかし、話が進むにつれ違和感があり、それがヒビのように広がって、終わる頃には自分の中で決定的な亀裂となった気がした。

まず渋谷のトイレがあまり汚れていないことに疑問があった。もちろん劇映画でドキュメンタリーではないから、仕方がないことだけれど、そこの過酷さは例えば自分ならあえてモザイクにするなどしてでも、こだわると思う。なぜなら、彼の仕事(トイレ掃除)が、他人があまりやりたがらない仕事であるという前提がこの物語に必要だからだ。

それがないと割とけっこう楽しそうに見えてしまうんじゃないかと。

さらに引っかかったのはジェンダーに関する描写だ。例えば迷子の子どもと手を繋ぎ、役所さんが母親を探し、見つかった母親がぶっきらぼうに子どもの手をとり、お礼も言わずに去るシーンでは、「現代社会の世知辛さ」みたいなものを描こうとしていると思うのだが、その感じはなんかもうかなり古い気がした。30年前の雰囲気というか、いやもう小津の描いた日本なんてとっくにねえよと思った。

2024年の日本でそれを描くなら、そこまで余裕を失ってしまうワンオペ子育てをしている母親の側の視点が必要だと思うが、監督にその視点はなく一方的で男性的、そして特権的であるとさえ思った。

なんとなく白人ヴェンダースおじいさんが世界のおじさん向けに発信している映画なんじゃないかと思い始めた頃、若い女性が役所広司が車で聴く古いカセットテープのジャニスジョップリンに興味を持ち、なんとなくキスされるシーンがあり、それが確信に変わった。ああ、これはおじさんの都合の良い夢の連続なのだと。特権を持った人間が特権を持った人間へ発信している表現といったところか。

主人公の平山自体は無口でマンスプレイニングなどしない男なのだけれど、しかしながらこの映画自体の構造はヴェンダースによる巧妙なマンスプだと感じてしまったのだ。

そんな彼の部屋にはテレビもラジオももちろんパソコンもない、メディアといえば、古本を買うくらいだ。時折、どこかの神社などで見つけてきた樹木の新芽(?)を持ち帰り、部屋の植木鉢に植え替え丁寧に育てている。

趣味はアナログのフィルムで写真を撮り現像すること。たまに、なんとなく様子のいい、そして歌のうますぎるママ(石川さゆり)のいるスナックで酒を飲む。

平日はルーティンで仕事に出る。その繰り返しの何気ない日常だ。

それをパーフェクト・デイズとこの映画は言っている。

たぶん日本古来の美徳である「足るを知る」というようなものをヴェンダースは、現代社会の病理から逃れるひとつの方法としてとらえたのだろう。

しかし、じゃあなんでみんなユニクロきてるんだろう?

浅草には本当に古い、おじさんが着る専門の安い古着屋もまだある。

なんで朝、わざわざサントリーの自販機から缶コーヒーを買うんだろう?

水筒なんて、おれでももっているけど?

渋谷区のアーティスティックなトイレは現実よりエグ味がなくいつも美しく、

それらの公園の再開発で寝床を失ったホームレスも出てこない、

時々、田中泯さんのものすごく美化された浮浪者が横切るだけだ。

で、鑑賞後にこれらの違和感はあっけなく、いや少し調べると腹が立つほどシンプルな理由で腑に落とされる。

衣装がユニクロなのはこの映画のプロデューサーがユニクロの柳井社長の息子だからだし、サントリーは役所さんのタイアップだし、トイレが美しすぎるのは何よりこの映画の発案自体がTOTOのトイレプロジェクトから始まっているからなのだ。

なんだろう、これって映画なん?長いcmなんじゃないか?とさえ思ってしまう。

今時、youtubeでも画面に「この動画はタイアップを含みます」と出さなきゃならないのに、この映画はわざわざ2000円も払ってステマを見せられたようで胸糞悪くなった。

ましてそのタイアップの強い資本主義性がストーリーにまで侵食している。

「足るを知る」という一見美しい生き方が、大きな資本主義に染まりながら「足るを知れ」だと意味合いが全く変わってくると感じた。

平山の生き方はある種、江戸時代的な雰囲気があるんだけど、それこそ江戸時代にあった「上見て暮らすな、下見て暮らせ」という言葉を想起した。権力者や大資本に都合の良い、搾取しやすい一般人像を押し付けられた気分で、私は怒りすら覚えた。

この映画は、いわゆる価値観のアップデートを拒否する映画であり、バックラッシュ的ですらあると思う。埋め立てられる辺野古からも、ガザの虐殺からも、自民党のキックバックからも、入管の非人道性や日本社会に根付いたジェンダーの不平等からも目を逸らし、情報を遮断し、あらゆる複雑な現実から目を逸らすことができれば、そりゃあパーフェクトでしょうね。あなたの世界だけはパーフェクトでしょうね。

でもそれは社会性や責任から逃げただけで、カルト宗教に入って思考停止するのと同じではないですか?そして、そこに疑問を持たなくて済むのは自身の特権性に無自覚だからではないですか?

こうして僕らの上の世代が、豊かさにかまけて、自分の世界がパーフェクトであることに拘泥し、社会問題に声を上げなかったことで、今の日本はこんなに貧しく、人権が軽んじられ、生きづらいんじゃないですかね?

そして貧しく生きづらくなった日本で生きるためにもっと盲目的になれ、現実から目を逸らせ、

搾取にも鈍感になれ、という、社会の終わりのようなメッセージをこの映画は帯びていた。

さらに言えば「独りで生きることもいいよね」という描き方もえらく古臭く特権的な目線だと思う。もはやこの社会には独りで生きることを強いられる人も選ぶ人もたくさん存在するのだ。

また、トイレが綺麗なことは日本の「美徳」だろうと思うが、その「美徳」とやらに縛られて苦しんでいる人たちが今の日本にいることは完全に透明化された気がした。

この映画はウォッシュ映画だと思う。

ウォッシュとは、社会に配慮しているように見せかけているが、実態が伴っておらず、消費者に誤解を与えるような商品やプロジェクトを指す言葉で、英語の「ホワイト・ウォッシュ」(不都合な事実を美化すること)が語源とされる。最近では環境に配慮していると見せかけている企業や商品をグリーン・ウォッシュと言ったり、スポーツイベントの盛り上がりで政治的なスキャンダルから目を逸らすことをスポーツ・ウォッシュと言ったりもする。

年末から年明けになるといろんなニュースが無かったことになることも、年末ウォッシュという。

ウォッシュ映画、この映画がTOTOがスポンサーのトイレ映画だということを考えると、なんというか笑えない落語のようなオチだ。

やんばるの冬

やんばるの冬

私はこの映画に反旗を翻すつもりだ。

この正月、私は大阪で巨匠と呼ばれる人間の作品を3本見た。

ヴェンダースの「パーフェクトデイズ」と北野武の「首」

そして宮崎駿の「君たちはどう生きるか」だ。

「君たちはどう生きるか」の解説本のなかに宮崎駿氏が書いた企画書の文章があった。

「世界は膨れ上がっている。予測もつかない大破裂がいつ生ずるのか。 今、私達が生きるこの社会全体が息をとめてその瞬間を待っているかのようだ。 君たちはどう生きるか それは、自分はどう生きるかであり、何をもって観客とむかいあうかである。人生の危機にあって、見たくないもの、あばかれたくないものを見すえ、跳躍しなければならない。」

ガザでの虐殺を誰も止められず、辺野古の代執行が始まり、震災があり、羽田で航空機が燃え、そして松本人志が退場したこの2024年の始まりを予見し、さらにどういう態度でこの時代に向き合っていくかを示した的確な予言だと感じ、震えた。

また、この感覚は私が映画のクラウドファンディングに寄せた文章と通じることにも驚いた。

以下引用「社会/世界の複雑さから逃げることなく、立ち向かった先に生まれるものを記録していきたい。それこそが公共のための、新しい利益になると私は考えています。」

そしてこれらの感覚と真逆だったのが、「perfect days」のウォッシュ的世界観なのだ。

「人生の危機にあって、見たくないもの、あばかれたくないものから目を逸らし、跳躍しない。」

まさにそんな映画だった。

正直にいうと、私自身も気を抜くと平山のようになってしまいそうで怖いという感覚もあった。

平山は、間違った方の未来を選んだ私の姿でもあるのだ。

そして私はそんな未来を選ばないように今日ももがいている。

不完全な日々をどうにか泳いでいるのだった。

ある友人からLINEが来た「perfect daysは桐島容疑者の潜伏生活だと思うとしっくりきます。」

不謹慎ながらこれには笑ってしまった。

不完全な僕らの不完全な日々は続いてく。

imperfect days goes on.

そんな日々を不定期で綴っていこうと思う。

気に入れば登録などよろしくです。

猪股東吾/大袈裟太郎

私

無料で「Imperfect days パーフェクトじゃない日々」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら